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と、赤井もびっくりしたような声を出した。
二十二日WashingtonBirthday一宮氏のところへ行って(お茶の水出身者の会)かえりにS.C.によって、Aの帰って来たのに送られてWhittierにかえる。
坪内逍遥は、演劇に関する限り一個の傑れたアマチュアであつて、一世を指導する創造的着眼を欠いていた。かくて、島村抱月も小山内薫も、終生アカデミイなきアンデパンダン的存在として、空虚な努力を「新劇」開拓の上に捧げたのであつた。
ところが、現在わが国に於ては「上等な劇場」といへば、「場代の高い劇場」の謂であり、必ずしも、「程度の高い」ことを意味せず、はつきりいへば、商業劇場は一つとして、「精神的娯楽」のために存在してはいないのである。
手紙というものは、どんなものでも、そう嫌なのはないけれど、ただ一つ、僕が当惑するのがある。近日ちょっとお伺いしたいのですが、御都合のよい時日を知らせて下さいませんか、云々、といったような手紙だ。殊に、返信用の葉書なんか封入してあると、全くまいる。
「天上から地上へのぼるために無残にもおれた梯子である」芥川
教え得る(従って又学び得る)という学問性の規定――教導性――は様々に解釈出来るであろう。吾々は少くとも二つの場合を区別することが出来ると思う。学問が学問である以上或る人が築き上げた学問は他の或る人によって伝承されることが出来るというのがその一つである。というのは、成る程他人の業績をそのまま無批判に受けとることはどのような場合にも許されないが、併しそれが学問を有つからには、他人のその労作を一つ一つ実地に繰り返さなくても、自分にとって信頼すべき確実な遺産としてそれを所有することが出来、又は他の視角に於て他人の功績或いは失敗を再び繰り返す無用を節約することが出来、従ってこれを基礎として自分の研究を進めることが出来る筈である、というのが第一の場合である。茲にあるものは伝習の可能性である。――之を伝承性と呼ぶこととしよう。之に対して第二は、学問が学問である以上、まだその学問の語る理論に到達していない処の人々(尤もあまりにそれから距たっているものは別として)をして、之に通達せしめる通路を示し、之へ誘導し得る筈である、という場合である。ここにある問題は素養ある他人が、之に付いて来ることが出来るか否か、即ち異議と曖昧に出逢わずに歩むことが出来るか否か、である。――之を誘導性と呼ぼう。伝承性と誘導性、この二つの場合は、決して同じではないであろう。何となれば第一の意味に於て教え得るものは必ず第二の意味に於ても亦教え得るものでなければならないが、併し、その逆は必ずしも成り立たないからである。この意味に於て例えば哲学は学び得ないという言葉は意味を有つと考えられる。何となれば哲学は誘導され得るが、併し伝承され得ないという関係を、その言葉は語ろうとしているのだから。
「でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……」
加来もう臂のところまで、しびれて来た。
学問性が普遍妥当性であるという言葉は、恐らく人々が好んで用い安んじて使っている処のものであろう。学問性が普遍妥当性であるから、それであるから――その人達はこの時すでにこう推論することのみを用意している――学問性は当為であり規範であり真理価値に関する、と。併し普遍妥当性の概念をこのように形式的に――この概念が単に概念として有つ観念性だけに注意しながらその概念が更に事態として有つ事態性を忘れて――取り扱う前に、吾々はそれよりも先に、どのような普遍妥当性が普遍妥当性と呼ばれているのかを見る必要が、今の場合あるのである。何が普遍妥当性という概念であるかよりも先に、普遍妥当性と云う概念は如何なる事態を指しているのかを見る必要がある。之を怠る時折角の普遍妥当性も内容を顧ないという意味に於て形式的概念に過ぎなくなって了う。実際人々はこのような形式主義に陥っていることが少なくないであろう、往々にして人々は、普遍妥当性が現実に何となって現われているかを顧みずしてこの概念に安んじている場合が多いであろう。処で吾々の普遍妥当性は形式的概念であることに安んじない、それは現実的内容を持つべきである(但し、この現実的内容とは向のかの事実上の普遍妥当ではない。原理的な概念の現実的内容は又依然として原理的でなければならない)。――教導性が恰もこの現実的内容であった。故に所謂普遍妥当性は一つの形式的な夫であり、ただ教導性のみが内容的な普遍妥当性概念であるのである。そこで今や云うことが出来る、学問性とは、内容的な普遍妥当性概念としての、教導性に外ならないと。
そんなふうにオレは社会的な帰属意識には欠けている。しかし、オレが遠くに行きたいと考えていたのには、原因があった。
この間はお世話になりましたと里奈。里奈はこうして喫茶店に座っているとまったく普通の女の子だ。次の日電話したんだけど、とオレ。うちの事務所はいい加減だから、私が電話番するくらいだもん、と里奈は笑う。あのさ、旅行にいかない、オレはそう口走っていた。里奈は驚いている。当たり前だ。誘っている本人がいちばんびっくりしているんだ。でも、学校があるし。里奈ちゃん、学生なの?高校二年生。え、それじゃあ、十七才?里奈は元気よくうなずく。オレは、驚いて声が出なかった。十七でアダルトに出る女はいくらでもいる。しかし、里奈はどう見ても十七には見えなかった。あのさ、ご両親は知ってるの?この前の撮影のこと。里奈はオレの顔を見ていたが、下を向いて笑い出した。何だか、お父さんみたい。今度はオレが恥ずかしくなって下を向いた。でも、行きたいなあ、里奈は窓の外を見ながら囁いた。オレは驚いて、顔をあげた。ほ、ほんと、行こうよ、行かなきゃ後悔するよ、きっと。何を後悔するのか分からないが、オレは必死に里奈を説得した。結局、一週間後に返事をもらうということになり、オレは里奈を家まで送ることにした。
「もう長くいますか。」
(二)宋の王柏は論語の堯曰篇首の二十四字を堯典の脱簡なりとして、舜讓于徳弗嗣の下に補つた、又同篇の曰予小子履以下四十六字は、墨子兼愛篇に引ける湯説と殆ど一致し、(論語の孔注には墨子に湯誓を引けるといつて居る)雖有周親以下四句は、兼愛篇の武王が泰山隧に事ふる祝詞と粗ぼ同じである。又墨子に引ける尚書には呂刑、大誓、仲之誥等、今の尚書と同名の者の外に、今の尚書と異名同實の禹誓(甘誓)武觀(五子之歌)等があり、同名異實の湯誓などがあり、今の尚書に全くなき術令、相年、禽艾、湯之官刑、禹之總徳等もある。
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